秩父山田の春まつり
                           07.03.11                                     

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Part Tでは因島の見どころと村上水軍を辿って見ました。


 因島大橋と海峡   向島    笹島     布刈瀬戸       百島          横島     当木島
 
 しまなみ海道(西瀬戸自動車道)
因島大浜町
海峡はクレーン船をはじめ貨物船多し、橋の下は因島大橋記念公園になっていた。
       

   一羽のアオサギが羽ばたき、滑空を楽しみ羽を休める
   その繰り返しだ、この地を自分のものとし誇らし
   げに飛び回っているようだ。
そんな公園、湾曲した砂浜が大浜崎灯台近くまでつづく、シーズンには海水浴客で賑わうことだろう。

フラワーセンターへ
右の貼り紙見たーときにゃー 休園中かと思った、作業中の
ご婦人、散らかってはいるがどうぞ・・・。
      何事においてもよく確認せんと遺憾ナー


    
                リニューアルオープンされればここも   こちらも花でいっぱいに成ることだろう。
時おり作業員が行き来、貸切状態だ。
数種だが珍しい花、実を撮ったPhoto3にまとめました。 


  タマゴノキ
  カカオノキ
  ゴレンシ
  サボテン
  バナナノハナ
  ミッキーマウスノキ
  ソランドラ
   
フラワーセンターの裏手に標高227mの白滝山が、中腹まで
車が入れる登ってみっか。程なく駐車場に着く、こっから徒歩
10分で頂上だ。

ここ白滝山には15世紀はじめ 村上水軍、村上吉充に
よって建立された観音堂がある。

柏原伝六と彼の弟子達によって五百羅漢石仏が造られて
いる。
  石仏作りは、61歳の時取っ掛かり64歳の時完成した。

    

10分といえども暗い急な道と岩だらけの崖道が続く、足腰にこたえるなー。










石造りの階段の先に仁王門、くぐり抜けると6mの多宝塔が迎えてくれたその左側に観音堂。
               
 
   釈迦三尊          三大師

  
多宝塔より稜線伝いに石仏がびっしり
      頂に伝六夫婦像がそして梵鐘が。







頂上展望台からのアップ画像、パノラマ画像をご堪能下さい。
いくら眺めていても尽きない、観音堂に戻りお賽銭をあげ次へ。


車で10分の所に因島水軍城が車止めより坂道、急階段とつづく。
りっぱな門をくぐり石段をのぼり。


展望台からの水軍城全景。
姿かたちは見せぬがホーホケキョ、ウグイスが盛んに囀っていた。。


小生、武蔵国から来た一介の素浪人でござる、安芸に所要で参った。帰る途中ではあるが名だたる水軍を率いる、村上武吉殿の話しを耳にした是非ともお目にかかりたい。 

素浪人とやら遠い所をご苦労じゃけん、はたまた拙者に会う為に遠回りなさったと聞くけん、嬉しい限りやけんのうー。
土生町に宿を用意した、ゆっくり風呂に浸かり旅の疲れを癒していかれたら いかがかと想うけん。

武吉殿のご好意 願い叶ったりだ。
赤銅色した猛者を想像していたんだが、ここでお会いした武吉殿は小生よりはやや劣るが男前。



村上武吉 1533年頃〜1604年 

 瀬戸内は畿内と西を結ぶ海上交通の要 戦国時代、瀬戸内は陸の大名の支配の及ばない地域、淡路から下関までにいたる地域に大小さまざまな水軍(海賊)がいた。そんな地で能島.来島.因島.三島村上水軍も通行する船の金品を奪う海賊であったとされる。
父義忠より家督を受け継いだ頃より三島内紛が始まる、武吉は起ちあがる海賊ではなく改革をし瀬戸内の大名を目指した。金品を奪うのではなく時には10ノットに及ぶ海流、人力、風の力で走らせる操船技術を通行する商船へ手助けをし護衛し航行の安全を約束し、操船技術と護衛の名目で通行料を頂くようにした商船等も願い叶ったり。又号令一つで船団を動かす方法とか、砲緑(遠投爆弾)戦の時に使用する、一族を強固な水軍につくりあげる。瀬戸内に大きな影響力を誇る陶隆房(晴賢)が、村上水軍の主要な収入源であった通行料を禁止した、晴賢の武力の前に、沈黙せざるを得ない。しかし、安芸吉田郡山城主の毛利元就が陶氏打倒に立ち上がった、水軍の利権を奪おうとする晴賢か利権を維持させる元就か武吉の腹は明かだ。厳島に晴賢軍二万を誘い込んだ元就、1555年9月30日嵐の夜元就は宮島をめざす、時同じして村上水軍も出航 10月1日未明太鼓が鳴り響く晴賢軍の前後から奇襲作戦に出る、あっけなく陶晴賢を自害に追い込んだ。厳島の決戦後、武吉と毛利家は小競合いも多々あった、1570年元就死去後もにらみ合いはつづいたが1574年ついに毛利家に降った。武吉は毛利家の忠誠な武将となる。
1576年織田信長が瀬戸内.中国進出の為大坂の石山本願寺を攻めると、毛利軍に協力し信長の水軍を砲緑で撃破し、海路補給を果たす。しかし2年後11月信長の鉄船との戦いでは大砲の直撃に会い惨敗する一族からは寝返りも出るしまつ、羽柴秀吉を大将に中国進出を進めている信長軍、巧妙な手口で水軍を内紛へと導いたが、毛利側に付いた武吉が勝利を収める。秀吉についた来島村上通総を瀬戸内より追放す、時同じし頃本能寺で信長、明智光秀の謀反により死去、後 毛利軍と秀吉軍は和睦。豊臣秀吉が天下を取ると1588年刀狩令及び海賊禁止令を発令する、武吉は瀬戸内での居住を許されず、筑前や長門に移住する事と相成った。1604年8月、周防の屋代島で死去、ここに村上武吉は、水軍大将としての歴史に幕を閉じることになる。
資料館
村上水軍縁りの数々が展示され往時を偲ぶ事が出来る。
今日は土生町漁港泊だ。 お銚子2本奮発す。