八丈島ではカツオ、トビウオ、キンメ漁が盛ん、中でも 曳き縄漁で一本ずつ捕獲したカツオは、何処より も早く築地に到着する。鮮度が勝負のこの業界、いち早く 到着した八丈産のカツオは八丈島ブランドとして高値で 取引される。 |
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岸壁よりカンパチ、ヒラマサも狙えると言うが、昼飯に何かをと想いリールを投げたムロアジがかかった。 | |
早速、昨夜の料理屋に行きさばいて貰う、 形の良いのは切り身に雑魚は野菜と一緒にてんぷらに。 むろん 島とう醤油だ。 |
釣たて魚の舌鼓後は お隣垂戸湾へ黒い岩場だ。 左上は垂戸海水浴場、と言っても砂浜ではない干満を利用 した岩場の海水浴場、スノーケル、メガネ、フィンでプカーリ プカーリが最高とか。 永年波に揉まれ石は 玉石となり玉石垣に利用、大賀郷大里に多い。 |
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海岸より富士山の中腹へ一気に、高原の牧場ってーとこかな汗も止まり心地よさ抜群、牛 全てに名がついている。ここの 電源はディーゼル発電と風力発電のハイブリット方式、が 見かけた風力発電のペラが折れていた。 |
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車止めより数分の所に見晴台 中央に三原山、左に三根地区、右に大賀郷地区が一望。 |
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底土港と海水浴場 連絡船発着桟橋 桟橋の右奥に御正体根。 Tさん、やたらと時計を気にしていた、小生? やおら御正体根の左上空を見てて下さい。 来たーッ ※ Tさんの宿舎にはプラモデルながら色塗りを施 し、精巧に創り上げた飛行機が7機、その姿は いまにも離陸しそうだ。 彼は大の飛行機ファン。 |
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連絡船に挨拶し、御正体根に出迎えられ B737の着陸ショウの始まり しかも見下ろしてのロケーション。 飛行機ファンならずとも興奮するシーンだ。 |
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ここは南原千畳敷海岸、富士山の噴火によって出来た長さ 500mの溶岩原、遊歩道も整っていた。 |
ハマゴウがところどころに。 |
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八丈小島は眼の前だ。 |
突然Tさんは是非とも小生に合わせたい人がいると言い 出した。 誰かと想うまもなく二人の前へ宇喜多秀家と豪姫だった。 |
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1.997年岡山城、築400年の節目の年、半世紀を八丈島 で過ごした秀家と関が原の合戦後離れ離れになってし まった豪姫、平成9年12月千畳敷海岸で再開した。 そんな海岸にハマオモトが2株。 |
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雑学 宇喜多秀家 1.572年〜1.655年岡山城主、秀吉五大老の一人。 豪姫 1.574年〜1.634年秀家の正室。 前田利家の四女豪姫は秀吉の養女となり、1.589年豪姫(15歳)は秀家(17歳)の元へ3人の子どもを授かり幸せな日々を 過ごしていた。1.600年起こるべきして起きた関が原の決戦、秀家は石田三成の元、西軍を率いて副将として家康の東軍 と争う、両軍略互角むしろ西軍優勢、が 突如西軍に謀反が起こりあっけなく勝敗がついてしまう。三成は家康によって 斬首されるが、秀家は前田家の計らいで八丈島流罪となる。彼は八丈島への島流し第一号、子ども達と島へ渡ったが 苦労を共にしたい、同行を説に願い出る豪姫だったが認められず。後、実家の金沢に戻りいつかは一緒に暮らせる、島で 不自由な暮らしをしているだろうそんな想いで前田家に願い、医薬品に至るまで金品の仕送りを始めた。そんな豪姫だっ たが1.634年志半ば61歳で亡くなる。 訃報を知った秀家は子ども等に豪姫の分までここで生き抜こう そう言った。しかし よる年波には勝てない、 当時としては長寿であったろう 1.655年83歳、配所で没する 今でも秀家は大賀郷に眠っている。 秀家没後も時の将軍達はこぞって宇喜多一族をけして赦免する事はなかった。 |
秀家と豪姫に再開を約束し、次へ 車一台やっとのジャングル を抜け滑走路脇に、光線の状態で操縦席の緊張したパイロット の表情が確認できる距離だ。 うーー残念 今日だめだ。 |
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飛行機好きなTさん 今度は離陸ショウです。 |